2016/11/17更新2like1891view

著者:佐藤 桂火

【書評】住まい観を相対化した先に、見えてくる自分らしさ〜隈研吾『10宅論』を読んで

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これから家づくり・リノベーションを検討している人に向けて、新進気鋭の建築家・佐藤桂火さんが、ぜひ読んでほしい本を取り上げ、つくり手の目線・住み手の目線から語る連載の第2回目。今回は、建築家・隈研吾が25年以上前に書いた『10宅論』を、現代の視点から語ります。

▽ 目次 (クリックでスクロールします)

今回ご紹介する本

今、「目が覚めた」時代から

自分の「住まい観」を相対化する

「自分らしさ」とは、どのように表れてくるのか?

今回ご紹介する本

『10宅論』 隈研吾(1990)、筑摩書房

「10種類の日本人が住む 10種類の住宅」という副題が付けられた本書において、建築家・隈研吾は、当時の日本の住宅を「とりあえず」10種類に分類し論ずることで、日本人の価値観や、それぞれの住宅スタイルがはらむ象徴的意味をシニカルにあぶり出していく。

今、「目が覚めた」時代から

一つの家族が一つの住宅に住むということは、それほど歴史ある習慣ではない。むしろ人類の歴史の中では、大家族・多世帯で住み、働く場所と住む場所が同じであった時期の方がずっと長かった。

敗戦後、焦土となった国を再建するために政府が「一家族一住宅」の持ち家政策を推進し、住宅金融公庫を設立してローンの仕組みをつくり、住宅建設は経済政策の柱となった。ここでは「核家族」が前提とされている。父・母・子供数人で構成され、父は都心に働きに出て、母は家庭を守るという固定された役割分担が前提だった。都市計画もそれに合わせて「ここは働く場所」「ここは住む場所」「学区はこの範囲」と決めていき、広大な住むためだけの郊外の風景と、毎朝の通勤ラッシュの光景ができあがった。そして経済発展は成し遂げられた。
ところが、人口減少の時代に突入し、リーマン・ショックがあって、その前後にいくつかの大震災が起こり、人々の意識は変わった。典型的な核家族の方が世帯数として少なくなってきた。もはや、働き方の役割分担が固定されていては窮屈だ。働く場所も住む場所も、誰と働くのか、誰と住むのかも、各自が自分に見合った環境を仕立て上げるのがよい。女性は働くことで社会と関わるし、育児・介護をシェアするために近居や多世帯居住は当たり前だし、自宅に事務所を併設して働いたり、2地域居住して毎週末こどもと自然を楽しんだり、コワーキングスペースを利用したり、ビジネスをパートナーとシェアするなど、働き方を含めて自分の環境は自分で整える、という意識が根付きはじめている。

この縮小の時代の前、拡大の時代の最後に、バブル景気があった。本当は見えていたはずの、来るべき縮小の時代を、見て見ぬふりをして、バブルで麻痺した感覚で、永遠に続く成長という幻想を追いかけていた時代。本書『10宅論』が執筆されたのは、ちょうどバブルにさしかかったころだ。麻痺した時代の雰囲気に囲まれながら、著者はその怪しさに気づき、「目が覚めて」いた。

自分の「住まい観」を相対化する

この本では、住宅を10種類に分類して記述することを通して、当時の日本人の住まいに対する欲望を照らし出す試みがなされている。重要なのは、住宅を分類しているようにみえて、実際は住宅に住む人の価値観を10に分類していること。思考の型と求める住宅の型を一対一で捉えることで、当時の典型的な10種類の人物像を描き、時代を照らし出す。これらの人物像は一種のでっちあげで、けして実在しないし、分類として必要十分なものではないのに、不思議なリアリティがある。それは、ドラマの登場人物のように、誰の頭の中にもある、その時代の典型的な人の姿を描いているからだろう。

ワンルームマンション派、カフェバー派はモラトリアム、清里ペンション派はロマンチシズム、ハビタ派は合理主義で隠蔽した西洋崇拝主義、住宅展示場派はイメージを買う折衷主義、建売住宅派は……等々。読んでいると、どれも当時の人々の「自分らしい」「理想の」自己像や、他人からどう見られたいかということを、住宅を手に入れるという手段を通して実現したい、という欲望が記述されていることに気づく。そういう人々の心理が、パロディとして、なんとなく面白おかしく書かれている。

そして面白いことにこの分類は、読めば読むほど今でも部分的にはあてはまるように思える。住宅展示場派、建売住宅派などはもうそのまま現存する。カフェバー派は今だと高層マンションに好んで住みそうだし、エントランスロビーなど共用部はカフェバー派、料亭派、クラブ派などの嗜好に合わせて出来上がっているのではないか思えるほど。たぶん、本書と同じように、現実のパロディとしての『10宅論・現代版』を書くことも可能だろう。昨今流行のロハス・有機野菜・漢方を好むような「ロハス派」という分類が可能であるとすれば、それは全共闘世代からヒッピーを経由した「ハビタ派」の子孫とも言えてしまいそうだ。そしてたぶん「ロハス派」は、無垢のフローリングとアラワシのコンクリートが大好きだ。
ところが、「目が覚めて」いた『10宅論』の著者はそのような状況に対して、どちらかというと批判的だ。それは、破綻の見えている拡大の時代の枠組みの中で小さい差異を競い合うようなものに見えたからなのかもしれないし、身の丈に合わない虚構の理想像に近づこうとする努力への違和感から来るものなのかもしれない。本書をいま読むことの価値の一つは、住まいにまつわる決断をするにあたって、自分の選択がどういう選択なのか、を相対化できる点にあると言えるだろう。

「自分らしさ」とは、どのように表れてくるのか?

家づくりを通して、思い描く人生のヴィジョンを実現しようという欲望自体は、今の「目の覚めた」感覚の僕たちからしても、とても自然なものに思える。ただし、当時と今で違うとすれば、そのような相対化を経てもっと「地に足がついている」人が、少数派ながら、増えたこと。彼らは、目の前の具体的な課題をひとつひとつ発見し、解決して、乗り越えようと考えるだろう。だから、他人からどう見られたいか、ということ以上に、誰と住むか、どこに住むか、いつまで住むのか、誰と働くか、どこで働くか、どうやって働くのか、ということから考え始める。その結果として、家が出来上がる。その過程でヴィジョン自体が変わっていくこともあるだろう。(変わっていく方が自然だ。)でもそうやって、自分にとってリアルなヴィジョンがクリアに鍛え上げられていく。
そんな彼らの感覚では、住まい手の個性が、一つの家のスタイルだけで表現されたりはしない。それは、住む場所や、働き方や、素材や、環境や、使い勝手や、コストなどの現実的な諸問題に直面する中でその都度選び取っていった結果としてなんとなく現れてくるもので、自分の外の要因とのインタラクション(相互作用)の中で決まるものだ。自分らしさは、自分の頭の中の「理想像」のコピーとして現実世界に現れるのではない。それは、自分と、自分を取り巻く環境や具体的な問題と、それらに直面した時に行った自分の反応と、それら全体ひっくるめて「自分らしさ」として表出するものだ。住まいは、買ってオシマイ、の消費財や商品ではない。これこそが、「目の覚めた」僕たちが『10宅論』の時代の先人たちの経験の上に発見した、現代的な思考のスタイルなのかもしれない。

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